202 絆 - 平尾 誠二と山中 亮平


当時22歳だった山中に突きつけられた「空白の2年間」。ボールを触ることのできない日々は、山中の鮮明な記憶として残っています。山中は、生前の平尾さんの言葉を思い返しました。

「あの時、平尾さんの言葉が一番、ありがたかったんですよ。『お前には将来がある』と言われ、僕は神戸でやっていきたいと思うことができました。」



山中は大スターの系譜を継ぐ司令塔として、期待されていました。大阪・東海大仰星高3年時に花園を制覇し、早大4年時には日本代表初キャップを獲得。順風満帆なラグビー人生に狂いが生じたのは、神戸製鋼へ入部した1年目(11年)の春でした。

「空白の2年間」は突然やってきました。日本代表の宮崎合宿に参加していた4月28日、抜き打ちのドーピング検査による陽性反応の知らせを受けました。
「その時は正直『えっ、そんなことで!?』と思いました。本当にあほらしいことをしてしまったと…」

原因はひげを伸ばすために使用した育毛剤。秋にはワールドカップがあり、社会人1年目でのメンバー入りも期待された男に向く、世間の目は厳しいものでした。その上、当時の主流だった社員契約ではなく、プロ契約を結んでいました。

「大学から代表に入っていたから、『ラグビーでやっていけるやろう』という自信があったんです。」

チームからの暫定的な処分は「自宅謹慎」。後に2年間の資格停止処分が下り、神戸製鋼の方針が固まるまでの4カ月間を、大阪市住之江区の実家で過ごしました。1度の過ちを、自分で責める日が続きました。

「家族にも迷惑をかけましたし、今までお世話になった人全員にも迷惑をかけた。正直病むぐらい、きつかったです。」



その山中と似た境遇を知るのが平尾さんでした。当時の肩書はGM兼総監督。8月のある日、2人はホテルで顔を合わせました。契約解除も覚悟し、目線が下がりがちだった山中は、平尾さんの優しい声を聞きました。

「お前は2年間、ラグビーができへんけどな、将来のある選手や。まずはしっかり会社で仕事をしろ。俺が必ず、復帰できるようにしてやるから。」

平尾さんも前人未到の大学選手権3連覇を成し遂げた同志社大を卒業後、英国留学中の85年に抜群の容姿を買われてファッション誌にモデルで登場。自身に違反の認識はありませんでしたが、当時のアマチュア規定で日本代表を外され、多くの企業からのオファーが消滅した過去があります。それでも声をかけ続けてくれたのが神戸製鋼で、社長就任前の亀高素吉氏(享年86)でした。偶然にも同じ22歳での出来事。その背景があったからこその、声かけだったのでしょう。

「そこからですね。平尾さんにそう言ってもらえて『頑張らないと。やるしかないな』って思い、切り替えることができました。」

ラグビー部は退部。それでも神戸製鋼からは社員契約を提案され、総務部の一員として、午前9時から午後5時半までパソコンに向かいました。

仕事が終わるとおにぎり1個を頬張り、1人で東灘区のジムへ通う日々。ラグビー部の施設には立ち入ることができません。主婦やサラリーマンなど一般の利用客の隣で、毎日2時間のウエートトレーニングに励みました。社内で顔を合わせる度に、平尾さんは「飯行くぞ」「我慢せえよ」と声をかけてくれました。その度に折れそうな心を立て直しました。



「今は、あの2年間をポジティブに捉えています。そりゃあ『あの2年が…』と言う人もいますけれど、僕はそんな風には思わないです。ラグビーをしている以上、一生、あの過去は消せないので。」

13年に再入部が認められ、18年には元NZ代表の世界的SOダン・カーターらと共にチームを支え、悲願の15季ぶりの優勝に貢献しました。

「入院している時も、人づてに『山中がいいプレーをしているな』と言ってもらっていることを聞いたんです。『いつも見てくれているんだな』と思っていました。僕が『神戸で優勝したい』って思うのは、そういうところにつながっています。僕らの同期は結構、移籍したりしているんですが、僕自身は『神戸で(ラグビー人生を)終われたらいいな』と思っています。」



Lennyの#ラグビー豆知識

Lennyの#ラグビー豆知識