022 W杯を日本に招致した男 - 奥 克彦
2021年8月1日
奥さんは、高校からラグビーを始めて花園大会に出場し、早稲田でレギュラーになり活躍しているさなか、外交官になりたいとの想いから、2年の夏で退部。猛勉強し、在学中に超難関の外務省公務員上級試験に合格。
1981年、外務省に入省後、イギリスのオックスフォード大学に留学。ラグビー部に入り、日本人として初めて一軍選手として公式戦に出場。そして「日本でワールドカップを開催したい」という夢を持つようになる。草の根レベルながら、オックスフォード大ラグビー部で培った人脈を使って、日本大会招致を働きかけていた。
2000年4月、外務省の国連政策課長になった時、ちょうど内閣総理大臣に就いていたのが、奥さんにとって早稲田ラグビー部の先輩にあたる、森喜朗さんだった。奥さんは、森さんのところに行っては、「自分の外交官であるいろんな人脈を使ってください」と、「ワールドカップの日本招致」を訴え続けた。
さらにワールドカップ招致を考え、ラグビーの母国である英国に赴任を希望。在英大使館から戦後復興を図るイラクに派遣されていた2003年11月、車で移動中に武装勢力の襲撃に倒れ45歳で殉職。
その後、森さんは奥さんの遺志を受け継ぎワールドカップ日本招致委員会の会長を引き受け、その6年後の2009年7月28日、2019年のワールドカップラグビー日本大会の開催が決まった。
当時の森さんのインタビュー。声は湿り気を帯びていた。
「ワールドカップを日本でやりたいといった奥くんの思いがあるんだよ。奥くんの気持ちを大事にしてお手伝いするのが天命なのだ。ワールドカップ、それは、ぼくらの、日本ラグビーの夢なんだ。」
2002年2月、清宮監督率いる早大ラグビー部はオックスフォード大とケンブリッジ大との試合のためイギリスに遠征した。清宮さんは、オックスフォードのホテルで、早大ラグビー部の先輩で、ロンドンの日本大使館に赴任したばかりの奥さんに会った。清宮さんは事前に奥さんに早大ラグビー部のスローガン作成を依頼をしていた。スローガン作りは難航したが、奥さんが「ULTIMATE CRASH(アルティメット・クラッシュ、完膚なき圧勝)」と言った瞬間、清宮さんは叫んだ。「それだ!」
早稲田ラグビーは2002年度、『アルティメット・クラッシュ』を精神的支柱として、大学日本一へ駆け上り、13年ぶりの美酒を味わった。それはやがて早稲田ラグビーの代名詞となり、史上最強の黄金時代を作り上げた。
清宮さんは、今でも奥さんの野太い声を思い出すという。
「いま、何をなすべきなのか」
「キヨしかできない、ワセダしかできないことは何なのか」
「何のためにやっているのか」
「いま、やらなければ、いつやるんだ」
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